羅生門

らしょうもん

『羅生門』絵巻は平安時代の武将・源頼光(九四八~一〇二一)の鬼退治武勇伝に源氏伝来の名刀伝説を織り交ぜたものがたりで、舞台は平安京、成立は室町時代中期頃といわれています。

このものがたりには羅城門のあった現在の千本九条あたりはもちろんですが、多田、摂津国、丹波国・大江山、堀川通り一条戻橋、正親町の橋詰、二条大宮、八条坊門、男山、大和国・宇陀の郡、二条の御所、河内国・高安の里、唐土、長岡、横川等の地名や場所がみえます。たびたび登場する源頼光は一条戻橋近く、占博士(陰陽師)・安倍晴明の邸に間近く居を構えていたとのこと、本学近くの十二坊・上品蓮台寺には石碑「源朝臣頼光塚」が、ゆかりの蜘蛛塚としてひっそりと存在しております。

羅生門(正しくは羅城門)とは、羅城すなわち城外郭に設置された門で、中央を東西(左京・右京)に分かつ朱雀大路南端の京極に開かれた平安京の正門ともいうべきものでした。ものがたりの題名となっているこの平安京・羅城門(羅生門)は弘仁七(八一六)年に暴風雨で倒壊、まもなく再建されましたが、天元三(九八〇)年にはまたしても嵐に倒れてしまいました。それからは再建されることなく荒果てるままになってしまいました。荒廃にまかせた羅城門には次第に人も近づかなくなり、屍骸の捨て場と化し、楼上には鬼が棲みつくようになったという説話は御伽草子『羅生門』だけではなく、多くの作品のなかに取り込まれています。

また、羅城門の楼閣上には平安時代初期に唐から伝えられた兜跋毘沙門天が王城鎮護を願って祀られたというのですが、現在、東寺にまします重要文化財の木像がそれであるといわれています。平安京造営時の大内裏は現在の御所の位置ではなく南端が二条通り、羅城門から大内裏へと洛中を貫くメインストリート朱雀大路はおおよそ現在の千本通りにあたります。羅城門は現在その姿をみることはできませんが、本学から千本通りを南へ下った九条大路北側に「羅城門遺址」の石碑が建てられており、「唐橋羅城門町」という地名にその名残りをとどめています。

京の都で貴賎をとわず見目麗しい女性が次々にうせること百人を超すという事態に、原因を陰陽師に占わせると丹波国・大江山の鬼神の仕業という。
勅命をうけた源頼光がこの鬼神を退治したものの、酒宴の席にて大江山で討ちもらした眷属の鬼がこんどは都の羅城門に棲み、人々の往来を妨げているという噂をきき、ほっておけなくなった頼光・四天王のひとり渡辺綱の願いにより、頼光は太刀・膝丸を預けて鬼神退治に向かわせる。
綱は羅城門にて鬼と戦い、あわや討たれるかというところで鬼の右手首を切り落とし、持ち帰る。こののち膝丸の銘は鬼切と改められた。
その後は羅城門で鬼を見かけるという噂もなくなり、往来もたやすくなったが、頼光は病に冒され、医師の治療や加持祈祷をもってしても治る気配がない。人々は鬼神の祟りと噂するが、ある者が大和国・宇陀の森に棲む鬼神を退治すれば眷属絶えて祟りも鎮まるはずという。
これを聞いた頼光は綱をして、この度は家宝の名刀・髭切を預けて立ち向かわせる。綱は女房の姿に変装して宇陀の森へと向かう。鬼神はなかなか現れず、二十歳ばかりの女房に遭遇し、女房の家での宿泊ならびに夜明けてのちの出立を勧められる。
綱はこの女房こそが鬼神であるとひそかに身構える。女房の家に案内され、気を許すかに見えたそのとき鬼神は姿をあらわすが、構えていた綱はすこしもあわてず鬼の手首を切り落として持ち帰ったところ、やがて頼光の病も癒えることとなる。
手首を落としただけなので油断は出来ず、この後を占わせるに七日間の物忌みを勧められる。物忌み六日目に河内国・高安に住む頼光の母に姿を変えた鬼神が訪ねてくる。物忌み満了予定の翌日に会う旨を伝えるが、いますぐ会いたいと泣き叫ぶ母(実は鬼神)に屈し、扉を開けてしまい、ついには唐櫃に封じた鬼の手首まで見せてしまう。鬼神は自分の手首である、と取戻すが、綱、頼光に再度討ち取られる。

『常照-佛教大学図書館報 第53号』より (PDF:3.1MB)

京の都で貴賎をとわず見目麗しい女性が次々にうせること百人を超すという事態に、原因を陰陽師に占わせると丹波国・大江山の鬼神の仕業という。

勅命をうけた源頼光がこの鬼神を退治したものの、酒宴の席にて大江山で討ちもらした眷属の鬼がこんどは都の羅城門に棲み、人々の往来を妨げているという噂をきき、ほっておけなくなった頼光・四天王のひとり渡辺綱の願いにより、頼光は太刀・膝丸を預けて鬼神退治に向かわせる。

綱は羅城門にて鬼と戦い、あわや討たれるかというところで鬼の右手首を切り落とし、持ち帰る。こののち膝丸の銘は鬼切と改められた。

その後は羅城門で鬼を見かけるという噂もなくなり、往来もたやすくなったが、頼光は病に冒され、医師の治療や加持祈祷をもってしても治る気配がない。人々は鬼神の祟りと噂するが、ある者が大和国・宇陀の森に棲む鬼神を退治すれば眷属絶えて祟りも鎮まるはずという。

これを聞いた頼光は綱をして、この度は家宝の名刀・髭切を預けて立ち向かわせる。綱は女房の姿に変装して宇陀の森へと向かう。鬼神はなかなか現れず、二十歳ばかりの女房に遭遇し、女房の家での宿泊ならびに夜明けてのちの出立を勧められる。

綱はこの女房こそが鬼神であるとひそかに身構える。女房の家に案内され、気を許すかに見えたそのとき鬼神は姿をあらわすが、構えていた綱はすこしもあわてず鬼の手首を切り落として持ち帰ったところ、やがて頼光の病も癒えることとなる。

手首を落としただけなので油断は出来ず、この後を占わせるに七日間の物忌みを勧められる。物忌み六日目に河内国・高安に住む頼光の母に姿を変えた鬼神が訪ねてくる。物忌み満了予定の翌日に会う旨を伝えるが、いますぐ会いたいと泣き叫ぶ母(実は鬼神)に屈し、扉を開けてしまい、ついには唐櫃に封じた鬼の手首まで見せてしまう。鬼神は自分の手首である、と取戻すが、綱、頼光に再度討ち取られる。

『常照-佛教大学図書館報 第53号』より

巻子仕立ての本体には内題外題ともになく、標題は箱蓋題によるものである。丁子茶色地に金糸を使った桜花織模様のある布表紙に濃紫の平紐を巻き、見返しには布目の金箔を置く。厚手鳥子紙の天地に金砂子・切箔を散らし、金彩下絵を施した本紙は裏地にも雲母(きら)を引いた豪華な絵巻である。本紙(詞書部分)は狭い部分で幅二二・八、広い部分では五〇センチをこえる。納められた箱の蓋には「ろ第四拾八號」との貼紙付番がなされている。