図書館のはじまり (10-4)

 みなさんは「図書館」をどういうもの、どういうところだと思っておられますか? 
 また、佛教大学図書館とはどのような図書館と考えていらっしゃいますか?
 今月は読書の秋に「図書館」のはじまりについて少しお話ししてみたいと思います。

 
 漢和辞典の権威、諸橋轍次著『大漢和辞典』(大修館書店)では①「古、蔵書の処は石室・閣・観・庫・堂・亭といい、之に固有名詞等を冠して天鹿閣・白虎観等と称し、朝廷では秘府・書府・冊府等と称した。・・・(中略)・・・図書館の称は光緒三十一年、湖南に公立図書館を設立したのを始めとする。」②「多くの書物を備えて衆人に閲覧させる所。書籍館。」とあります(現代かな遣いおよび新字体になおしています–筆者)。
 では、国語辞典ではどのように説明されているでしょうか。日本大辞典刊行会編『日本国語大辞典』(小学館)では「図書や記録などを集め、保管し、公衆に閲覧させる施設。目的によって公共図書館・国立図書館・専門図書館・大学図書館・学校図書館などに分類される。」とあるように、多様な図書館が存在します。多くの大学がその建学精神にそって設立されているのと同様に、図書館もまたその目的によって、機能も規模も異なります。
 本学図書館はこの分類でいうと「大学図書館」に入ります。 
 では具体的に図書館はいつどこに始まったのでしょうか。もちろん現代の図書館の様相とはだいぶ異なるものだったでしょうが、文明とりわけ文字の発生と深く関係しているようです。

《古代メソポタミア》
 
エブラ(現シリア=アラブ共和国)王宮の遺跡から1万数千枚の、ニネヴェ(現イラク共和国領北部、チグリス川左岸)遺跡の王宮跡からは2万5千枚を超える、そしてニップール(バビロニアの首都)の神殿跡からは約2千枚の粘土版が発掘されています。これらは文字が刻まれた文書群であり、一定の空間に収められ、「保存」と「利用」という現代にも通ずる図書館の基本的な機能がすでに見られるものであったといいますが、図書館というよりはどちらかといえば文書館といったほうがよいでしょうか。

《古代エジプト》
 
紀元前ラムセス2世の時代にも王宮に図書館のあったことが文献に見え、確実視されていますが、発掘資料はまだありません。

《古代ギリシア》
 
古代ギリシア、いや世界最古の図書館としてみなさんはすぐにアレクサンドリアの図書館を思い浮かべられることでしょう。しかし、それよりまえギリシアにはソクラテスやプラトン、アリストテレスといった多くの哲学者たちが活躍していたことを思いだしてみてください。かれらの中には私文庫(個人図書館)を持つ者も現れましたし、学校ができ、学校ができればそれに附属する図書室や図書館ができました。
 また古代オリンピック発祥の地として名高いオリンピアをはじめとするギリシア各地にはギムナシオンと呼ばれる体育館、体育訓練場が作られました。そこは身体を鍛えるだけでなく図書室が付設されていたといいます。

《アレクサンドリアの図書館》
 
マケドニアの王フィリポス2世の子として生まれたアレクサンドロスが小アジア、エジプト、ペルシア帝国の征服、と圧倒的強さで世界地図を塗り替えたことはみなさんよくご存じのことでしょう。ギリシア文化にエジプト、オリエントの文化が融合し、ヘレニズムの世界ができあがったことも。
 ナイル川河口の都市アレクサンドリアはヘレニズム文明の中心都市となり、その文明の中心となったのがアレクサンドリア図書館でした。プトレマイオス2世の時代に完成したとされますが、遺跡は残っていません。古代では最大、最高の図書館として建設され、世界中の資料を収集することを目標にしていたそうです。どのようにして?
 アレクサンドリアに寄港する船の積み荷や蔵書はすべて強制的に買い取られた、あるいは没収されたのです。没収とまではいかないにしろ、停泊期間中に借りて資料を書写し、原本は返さず、写しの方を返す、とか・・・
 とにかくかなり強引な方法ではあったのですが、このようにして70万巻の蔵書をほこる古代世界最大の図書館はできあがったのです。

《ペルガモン図書館》
 
ペルガモン図書館はアッタロス朝のペルガモン王国の都(現トルコのベルガマ)に建設されました。アレクサンドリア図書館に対抗して、アッタロス1世とエウメネス2世によって造られました。しかし、当時アレクサンドリア図書館長であった書誌学者アリストファネスはペルガモンの図書館長にヘッドハンティングされようとしていたことをエジプト王に知られ、逆鱗に触れて投獄されてしまいました。
 ペルガモン図書館はアリストファネス獲得に失敗しただけでなく、当時の西洋におけるもっとも主要な書写材料であったパピルスの輸出も止められてしまいました。ペルガモンは替わりとなる書写材料の開発を余儀なくされたのです。すでに書写材料として用いられてはいたのですが、獣皮素材(羊や山羊の皮)に改良を加え、良質の羊皮紙を生産するようになりました。
 西洋図書の材料として重要な素材となっていったこれら羊皮紙のことをパーチメント(parchment)と呼びますが、この地名ペルガモン(Pergamon)に由来しています。

《中国の図書館》
 
上記に紹介しました中国の図書館は「石室、閣、観、庫、堂、亭」等に固有名詞等を冠して称し、とくに朝廷の図書館は秘府・書府・冊府等と称されました。
 漢代の蘭台・麒麟・石渠・天禄・石室・延閣、西晋の秘書閣、東晋の東観・仁寿閣、南北朝の總明殿・学士館・文徳殿・仁寿閣・文林閣、隋代の東都修文殿・東都観文殿、唐代の官書庫(弘文閣・文徳殿・四庫・十二庫)、後周の虎門麟跡、宋代の官書庫(尊経閣・秘閣・龍園閣・天章閣・太清楼・王辰殿・四門殿)、明代の秘閣文淵、清代の七閣(文淵・文源・文津・文溯・文崇・文?・文瀾)等に加え、大規模な個人文庫や私設図書館も発達しました。
 司馬光の読書堂、尤袤の遂書堂、毛晋の汲古閣、湯鈔厓の萬巻楼、黄居中の千頃堂、錢曽の述古堂、徐乾学の伝是楼、元文の含経堂、厳元照の芳椒堂、阮元の文選樓、阮元の学海堂、張金吾の愛日精廬、商務印書館の涵芬楼、陸心源の?宋楼、紀昀の閲微草堂など数多くの図書室名を挙げることができます。
 これらの名称のなかには中国書籍の叢書名にその名が冠せられたものも多くありますので、どこかでご覧になったり、耳にされたことがおありではないでしょうか。

《日本の図書館》
 
日本の図書館は仏教の伝来と密接な関係があります。日本で最初に著された著作物は『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』と言われますが、これは聖徳太子が「勝鬘経」「維摩経」「法華経」に注釈を施したものです。日本の書写材料として後に発展する「紙」も伝来したばかりですので、私設の図書館を持ちうるような蔵書家はまだいなかったでしょう。このころはまだ役所の一部署である「図書寮(ずしょりょう)」が書写、国史の編纂、図書の保存、管理などを司っていました。図書の管理だけではなく、仏像の管理、紙や墨、筆など書写材料の管理も行っていました。
 昭和24年に宮内省が宮内庁に名称変更し、「書陵部」となるまで、この「図書寮」という名称が使われていました。
 また、「図書寮」には大宝律令制定以来「造紙所」が置かれ、紙の製造が行われました。平安遷都とともに、図書寮も京都に引っ越しました。さらに「延喜式」 によって、これまでの「造紙所」にかわって図書寮に付属の「紙屋院(かみやのいん、しおくいん、かんやのいん)」が置かれることになりました。「図書寮」は大内裏のなかの役所ですが、「紙屋院」は大内裏の外にあって公用紙の製造、技術指導などを行っていました。
 製紙に水(川)は必須の要件です。本学の近くに「紙屋川」という名の川が流れていることをご存じでしょうか。そうです、紫野にあったという「紙屋院」のそばを流れ、「紙屋院」に水を供給していた川なのです。

《寺院の図書館》
 
図書館と切っても切れない関係にある「文字」「紙」「書籍」は仏教伝来とも密接な関係があります。公式記録としては、「文字」・「書籍」は百済の渡来人・王仁(わに)等によって4世紀末から5世紀初めにかけて、「紙」は高句麗の渡来僧・曇徴によって推古18(610)年にもたらされたことになっていますが、実際には両方とももう少し早い時期に伝来していたであろうと言われています。
 仏教伝来は経典の請来、寺院の建立、写経、写経生、写経司、写経所等を促し、多くの寺院が多くの経典類を所蔵するようになりました。仏教経典のみを収めるものを経蔵、輪蔵、輪庫といい、外典も含めた典籍を収めるものは寺院文庫と称され、これらも広い意味での図書館です。
 本学図書館のアトリウムにも輪蔵があります。これは総本山知恩院の輪蔵を縮小複製したものですが、図書館のなかの図書館ということになりますね。

《宮中・公家の図書館》
 
日本の図書館は「図書寮」にはじまりましたが、これは役所の一部、つまり国立の図書館でした。それに対して蔵書家である天皇家の私的な文庫や上級貴族である公家の文庫としては「冷然院」(のち冷泉院,嵯峨天皇)、「嵯峨院」(大覚寺,嵯峨天皇)、「芸亭」(石上宅嗣)、「弘文亭」(和気広世)、「紅梅殿」(菅原道真)、「江家文庫」(大江匡房)、「法界寺文庫」(日野資業)、「文倉」(藤原頼長)などがあげられます。
 これらのなかで「芸亭」(うんてい)がとくに有名なのは、勉学をこころざす人への公開を行い、自由な閲覧を許可するという近代図書館の要素をすでに備えていたところにあります。
 佛教大学図書館も高い志をもったみなさんがたをこころからお待ちしています。