若者の心をとらえた青春の書12選  ‐宮沢賢治『風の又三郎』‐

<紹介図書>

  • 『童話集 風の又三郎 他十八篇』 宮沢賢治著/岩波書店/1967.1 *5月中旬排架予定
  • 『注文の多い料理店』 宮沢賢治著
  • 『銀河鉄道の夜』(改訂新版) 宮沢賢治著/角川書店/1996.5/請求記号909.3||ミヤケ-3
  • 『ポラーノの広場』 宮沢賢治著
  • 『宮沢賢治詩集』 宮沢賢治著/岩波書店/1950.1 *5月中旬排架予定
  • 『宮沢賢治』 [ちくま日本文学003] 宮沢賢治著/筑摩書房/2007.11/請求記号918.6∥2013∥3
    *『風の又三郎』,『注文の多い料理店』,『春と修羅』所収

いまは「風薫る」うるわしの五月ですが、同じ風でも二百十日にまつわる風が扱われる宮沢賢治(1896-1933)の『風の又三郎』を取り上げることにしましょう。

宮沢賢治は1896(明治29)年、岩手県稗貫(ひえぬき)郡花巻町(現花巻市)に生まれ、少年時代から植物や鉱物の採集に熱中し、旧制盛岡中学時代、学業にはあまり熱心ではなく、学校の先輩石川啄木の影響で短歌の創作を始めるとともに、哲学書や宗教書に読み耽っていました。しかし、発心して受験勉強に励み、1915(大正4)年、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学、1918(大正7)年に卒業後、研究生となり、この頃から童話を書き始めます。また、国柱会という宗教団体に入会、上京して布教活動に加わりますが、妹トシ病気の報を受け帰郷、1921(大正10)年に稗貫農学校(のちの花巻農学校)教諭となります。1924(大正13)年、詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を出版。1926(大正15)年、農学校教諭を退職、羅須(らす)地人協会を設立し、農業指導に専念しますが、過労から急性肺炎を患い、療養生活ののち1933(昭和8)年9月21日、37歳の若さで亡くなりました。

『風の又三郎』は、1924(大正13)年頃に書かれた「風野又三郎」を土台に、「種山ヶ原」や「さいかち淵」などの初期の童話を組み入れて1932(昭和7)年頃にまとめられた作品と考えられています。宮沢賢治の童話の集大成とも言うべき傑作です。

『風の又三郎』は「どっどど どどうど どどうど どどう、青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんもふきとばせ どっどど どどうど どどうど どどう」という不思議な風の音と恐怖を感じさせる4行詩から始まります。「風の又三郎」というのは賢治の造語ですが、東北地方には「風の三郎様」という二百十日 (9月1日)頃にやってきて風を入れた袋をかつぎ、馳せまわり、二百二十日(9月10日)頃になると飛び去っていく風の神の伝説があり、それをモチーフに賢治が「又」の字を付け加えてつくったと言われています。

『風の又三郎』は、ほぼ伝説通り、9月1日に始まり、12日に終わります。9月1日の朝、山奥の小学校の分教場(全校児童数38人の単級複式学級)に赤い髪の男の子が転校してきます。父の転勤に伴って北海道から来た高田三郎です。彼がきょろきょろ村の子どもたちを見ると、強い風が吹くので、5年生の嘉助が「あいつは風の又三郎だぞ。」と言います。最初、村の子どもたちは三郎を「外国人」とか「おがしやつ」とか、自分たちとは違う異質な存在と見なしますが、翌日、4年生の佐太郎が妹のかよの鉛筆を取り上げたのを知り、三郎は自分の1本しかない鉛筆を佐太郎に与えます。それを6年生でリーダー格の一郎がちゃんと見ていました。その後、一郎は三郎を仲間と共に兄の牧場や葡萄取り、水泳に誘います。こうして、村の子どもたちは最初の違和感から次第に三郎に親近感を抱くようになります。しかし、9月12日、嵐の朝、一郎は嘉助を誘い、早くに登校すると、モリブデンの鉱脈を掘らないと決まって、父に伴われて三郎が転校していったことを先生に聞かされます。「やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」と嘉助は言うのでした。

宮沢賢治の他の作品でお勧めは、『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』、『ポラーノの広場』、『宮沢賢治詩集』です。