館長コラム~私の心に灯をともした青春の書12選 リルケ『マルテの手記』

 皆さんはライナー・マリア・リルケ(1875-1926)という人をご存知でしょうか。いまから50年前には『リルケ詩集』は大学生の愛読書の一つでした。私も、いっぱしの詩人気取りで、読みふけったものです。また、学んでいる大学の大山定一、高安国世両先生がリルケを翻訳しておられましたので、お二人の訳された『マルテの手記』や『ロダン』、『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』を読み、リルケに惹かれていったのです。

 リルケは1875年、チェコのプラハ(当時はオーストリア・ハンガリー帝国領)に生まれました。娘を欲しがっていた母は、リルケが生まれると、女の子として5歳まで育てます。9歳のとき、両親が離婚し、彼は不幸な幼少年時代を過ごします。元軍人だった父は自分の夢をかなえるべく、リルケを陸軍の幼年学校と士官学校に入学させますが、生来孤独を好む彼は集団生活になじめず、恐怖と嫌悪の中で学校生活を送り、士官学校を退学します。その頃から彼は詩作を始め、19歳のとき、処女詩集を出版します。1895年にプラハ大学に入り、翌年にはミュンヘン大学に移り、1897年、女流作家ルー・アンドレアス・ザロメ(1861-1937)と知り合い、2回にわたって彼女と同行したロシア旅行が彼を詩人として、また人間として成熟させることになります。1901年、彼は彫刻家ロダン(1840-1917)の直弟子のクララ・ヴェストホフと結婚、翌年、『ロダン論』執筆のため、パリに赴きます。彼はロダンから「物」をよく「観て」、「ただ仕事すること」が大切であることを学び、ロダンを「自己の芸術の師表」として仰ぐことになります。彼は、1904年から正確には『マルテ・ラウリッツ・ブリッゲの手記』を書き始め、1910年に完成します。この完成後、彼は深い虚脱感に襲われ、しばらく作品を発表できませんでしたが、1923年、『ドゥイノの悲歌』と『オルフォイスに捧げるソネット』を出版、20世紀を代表する詩人の地位を確立しました。1926年、バラの棘が左手の指に刺さり、化膿したのが原因で亡くなりました。享年51。

 『マルテの手記』は、デンマーク生まれの詩人志望のマルテがパリの孤独で貧しい生活の中で綴った手記の形を取り、リルケのパリ体験を描いた小説です。筋はなく、54の断章から成っており、20世紀文学の先駆けをなすと評価されている作品です。難解ですが、孤独の中で私も死と愛について考えていましたので、身につまされ、感動した文章を読書ノートに書き留めながら、真剣に読みました。その中から、ほんの一部を紹介しましょう。

 「人々は生きるためにこの都会へ集まって来るらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ。」「この有名な市民病院…の中では、一つ一つの死などてんでものの数にならぬのだ。まるで問題にもされぬのだ。」「詩は人の考えるような感情ではない。…経験なのだ。」「僕たちにとって、死の恐怖は強すぎるに違いないが、それでも本当は僕たちの最後の力だと、僕はそんなふうに考えている。」「愛を待つことでは、決して救われはしないのだ。」「愛されることは、ただ燃え尽きることだ。愛することは、長い夜にともされた美しいランプの光だ。愛されることは消えること。そして愛することは、長い持続だ。」「ただ神だけが僕を愛することができるのだと、彼はそんなことをほのかに思った。しかし、神はまだなかなか彼を愛そうとはしないらしかった。」(大山定一訳、新潮文庫)。

<紹介図書>

マルテの手記
  ライナー・マリア・リルケ著・大山定一訳 新潮社 2001.9
  請求記号943.7||2008