館長コラム~私の心に灯をともした青春の書12選 賀川豐彦『死線を越えて』(29-4)

 50年前、京都大学宇治分校で教えを受けた先生方の多くは旧制高等学校卒業生特有の「教養主義」的雰囲気をおもちで、講義の中で哲学や古今の文学の名作を読んだ経験を語られたり、読書の必要性を説かれたりしました。私も、そんなお話に刺激されて、西田幾多郎の『善の研究』、阿部次郎の『三太郎の日記』、三木清の『哲学ノート』や『人生論ノート』など、哲学関係の本を読みましたが、当時の私には、賀川豐彦の『死線を越えて』や9月に採り上げる予定の倉田百三の『出家とその弟子』の方がより深い感銘を与えました。

 ところで、皆さんは賀川豐彦という人をご存知でしょうか。彼は1888(明治21)年、神戸市に生まれ、幼少期に相次いで両親を失い、5歳のとき徳島の本家に引きとられます。旧制徳島中学校在学中に洗礼を受け、伝道者をめざして明治学院高等部に入学、予科2年修了後に神戸神学校に転校します。その在学中、結核による絶望と死の淵から甦った21歳の賀川は、1909(明治42)年12月24日、神戸市葺合の貧民救済のために身を投じます。1914(大正3)年、米国プリンストン神学校に留学、帰国後、再び葺合のスラム街に入り、1923(大正12)年、関東大震災罹災者救援のために東京へ移るまで、ここで伝道と救済活動を続けます。その後、彼は労働運動や農民運動、協同組合運動(「コープこうべ」の前身)などを指導するとともに、教育や児童福祉の分野でも幼稚園や保育所を設立して、子ども家庭支援事業を展開します。このように、賀川はキリスト教的社会改良家として幅広く活躍し、第二次世界大戦後には日本社会党の結成に参画。世界連邦運動も始め、ノーベル平和賞の候補にも挙げられます。1960(昭和35)年に71歳で亡くなりました。

 『死線を越えて』は1920(大正9)年に出版され、100万部を超す一大ベストセラーとなりました。その巨額の印税は、その後の賀川の社会事業を支える大きな元手となったことは言うまでもありません。主人公は新見榮一、作者を思わせる人物で、父から法律を研究せよと言われて一高に入ったのですが、3年の1学期に喀血、2年ばかり療養生活を余儀なくされます。それで、榮一は官吏や弁護士になる道を諦め、明治学院に入学しますが、それが気にいらぬ父から学資が送られてこず、明治学院を退学して徳島に帰ります。しかし、徳島市長である父の生き方に批判的な榮一は父と喧嘩して父の家を出ます。榮一は神戸で沖仲士をしたり、父の死後、父の経営していた運送業を引き継いだりしますが、虚無的な生活に飽き足らず、路傍説教を始めます。1ヶ月後、俄か雨に打たれて説教しているうちに、悪寒を覚え、昏睡状態に陥ってしまいます。九死の中に一生を得た榮一は自分の「いのち」を神に捧げて、「貧民問題を通じて、イエスの精神を発揮」するためにスラム街で一生を送るという「聖き野心」を遂げるまでは、死線を越えて突き進む決意を固めます。

 スラム街では、貧しく無知で貪欲で、人生に対して何らの夢も希望ももてず、人間ここまで堕落できるかと思わせる人たちと出会いながらも、榮一は労働者や貧しい人たちを愛し尊敬し、彼らの面倒をこまめに見つつ、福音を説き続けます。彼の言葉に耳傾ける人は多くはありませんが、彼を支援する献身的な人たちが次第に集まり始めます。文章は、お世辞にもうまいとは言えませんが、いま読み返してみても、主人公の殉教者的使命感がひしひしと伝わってきて、弱く貧しく苦しむ人たちと共に歩み、力になりたいと真剣に思った若き日の熱き思いを再確認することができました。

<紹介図書>

死線を越えて
  賀川豐彦著 愛育社 1948.6
  請求記号913.6||136

善の研究
  西田幾多郎著 岩波書店 1950.1
  請求記号080||イナフ2||124;1

三太郎の日記
  阿部次郎著 角川書店 1968-1970
  合本 請求記号914.6||40||1
  補遺 請求記号914.6||40||2

哲學ノート
  三木清著 河出書房 1948.3
  請求記号121.9||68

人生論ノート
  三木清著 新潮社 1954.9
  請求記号121.67||2001?

出家とその弟子
  倉田百三著 岩波書店 1917.6
  請求記号912.6||クラヒ