いまから50年前、私の大学受験時代には、入学試験の英文和訳にイギリスの作家サマセット・モームの作品がよく出題されました。大学に入っても、英語の講読のテキストにモームの“Of Human Bondage”(『人間の絆』)のダイジェスト版が使われました。そんな「モーム・ブーム」のなかで、私もモームの作品を―もちろん、翻訳で―読み始め、主人公の生き方に反発しつつも、最も興味深く読んだのが『月と六ペンス』でした。
モームは1874年、パリに生まれ、8歳のとき、母親、10歳のときに父親を失い、イギリスで牧師をしていた叔父のもとに引き取られます。1885年、カンタベリーのキングズ・スクールに入学しますが、フランス訛りの英語と生まれつきの吃音のため、いじめに合い、みじめな学校生活を送ります。しかし、14歳のとき、肺結核を患い、南仏で療養。16歳のとき、オックスフォード大学へ進学して牧師になる道を勧める叔父の反対を押し切って、ドイツのハイデルベルクへ遊学、自由な青春を謳歌します。1892年、ロンドンの聖トマス病院附属医学校に入学しますが、医学の勉強は適当にして、作家修業に専念します。1897年、23歳のときに処女作『ランべスのライザ』を出版、注目され、作家生活に入ります。劇作家として成功を収めた後、1915年、41歳のとき、自伝小説『人間の絆』を出版しますが、第一次大戦中のため、あまり評価されませんでした。しかし、1919年出版の『月と六ペンス』がベストセラーとなり、『人間の絆』も再評価され、20世紀前半のイギリスを代表する作家としての地位を不動にします。1965年、南仏ニースで亡くなりました。享年91。
『月と六ペンス』は、フランスの画家ゴーギャンの生涯にヒントを得て書かれた小説です。主人公はイギリス人チャールズ・ストリックランド、ロンドンで株式仲買人をしていましたが、ある日突然、仕事と17年連れ添った妻、二人の子どもを捨て、絵を描きたい一心でパリへ向かいます。彼はそこで「美の創造」という情熱に取りつかれ、自己のみならず、他人を犠牲にして顧みない生活を送ります。挙句の果て、彼は重病に倒れますが、その彼を救ったオランダ人画家ストルーヴの愛妻ブランシュを奪ったうえに捨て、彼女を服毒自殺に追いやります。その後、チャールズは放浪の末、憧れのタヒチ島に渡り、現地の娘アタと結婚し、絵の制作に没頭しますが、ハンセン病に罹ります。しかし、彼は盲目になりながらも、死の直前まで小屋の壁一面に絵を描き続け、最高傑作を完成するのです。
私は、創造の衝動に駆られ、美の理想(「月」)の追求という一つの「目的の鬼」と化し、世俗的な現実(「六ペンス」)をいとも簡単にかなぐり捨てる天才画家ストリックランドの偉大さに憧れつつも、デーモンに取りつかれた天才の身勝手さ、冷酷さ、残忍さ、非人間性に反感を覚え、特に、彼が女性蔑視の発言を繰り返す部分には激しい怒りすら抱きました。
しかし、この書を読んで、私は、ゴーギャンの作品に関心をもちました。作中の最後の絵のヒントになったとされる「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」には、いつ見ても大きな感銘を受けます。モームが「これは、自然の隠れたる深淵にまで侵入し、美しくもあり、かつ恐ろしくもある秘密を発見した男の作品だ。人間が知るには罪深すぎる秘密を知った男の作品だ。どこか原始的で慄然たるものがあった。」(行方昭夫訳、岩波文庫)と書いている、人間の一生―誕生、生、死―の三段階を一枚のカンヴァスに描いた大作です。一度画集などでご覧になってください。
<紹介図書>
『月と六ペンス』
モーム著・行方昭夫訳 岩波文庫 2005.7
請求記号080||イナフ||254;2
『人間の絆』(上)(中)(下)
モーム著・行方昭夫訳 岩波文庫 2001.10-2001.12
請求記号080||イナフ||254;6_8