明けましておめでとうございます。
年頭から私事にわたって恐縮ですが、2002年5月、私は北京師範大学と北京大学から講演に招かれました。私の最初の中国行きに通訳として同行してくれた中国からの女子留学生が、北京師範大学教授労凱声先生主催のお別れ会で、誰かに「あなたの指導教官の山﨑先生ってどんな先生?」と尋ねられ、「藤野先生のような先生です。」と答えるのを聞いて、私は、現代中国の若者たちも魯迅(本名:周樹人 1881-1936)の『藤野先生』(1926年)を読んでいるのを知り、私が読んだ当時の感動を思い出しながらも、面映く感じました。
魯迅は1902年に清国留学生として来日し、東京で日本語を学んだ後、1904年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に入学し、藤野厳九郎(1876-1945)教授と出会い、授業ノートの懇切丁寧な添削指導を受けますが、1906年3月に仙台を去ります。『藤野先生』は、その1年半の仙台での生活と藤野先生への敬愛の気持ちを綴った短いエッセイです。
藤野先生は解剖学を担当していましたが、一週間ほどして魯迅を研究室に呼び、講義ノートをもってくるように言います。二、三日して返してくれたノートを見て、魯迅は驚きます。なぜなら、彼の「講義ノートは始めから終りまで、すっかり朱筆で添削してあったばかりか、たくさんの抜けている部分が書き足してあり、文法のあやまりまでいちいち訂正してあった」(駒田信二訳、講談社文芸文庫)からです。そしてこの添削指導は「彼の受け持っている学科の骨骼(こっかく)学、血管学、神経学の講義がおわるまでつづいた」のです。
ある日、細胞学の授業で幻灯(スライド)が映され、魯迅は日露戦争で中国人がスパイ容疑で日本兵に銃殺されるのを中国人の民衆が見物しているだけであるのを見て、彼らを救うためには医学による「肉体の救済」よりも文学による「精神の改造」の必要性を痛感します。魯迅は進路変更を決意し、藤野先生を尋ね、仙台医専を退学する旨を伝えます。魯迅が仙台を去る直前、藤野先生は魯迅に裏に「惜別」と書かれた一枚の写真を渡します。魯迅はこの写真を終生大切に壁に掲げ、「夜、仕事に倦み疲れて、なまけ心がおこってくると、いつも、顔を上げて、灯火のなかに、彼の黒い、痩せた、いまにも抑揚のひどい口調で話しだしそうな顔を眺めると、わたしにはたちまち良心がおこり、勇気が加えられるのである。」と書いています。魯迅にとって藤野先生は「わたしの師であると思いきめている人の中で、…もっともわたしを感激させ、わたしを励ましてくれた一人」だったのです。
最後に、私が藤野先生及び魯迅による国家と学術との関係に関する教えとして、日中のみならず、あらゆる国々との交流において大事に守り続けている一文を紹介します
「彼のわたしに対する熱心な希望、倦むことのない教えは、小にしていえば、中国のためであり、中国に新しい医学がおこることを希望してである。大にしていえば、学術のためであり、新しい医学が中国へ伝わることを希望してである。」
私は、学術交流や留学生指導は国家(=小)のためだけではなく、人類普遍の真理(=大)の探究のために行われるべきであるとつねづね思い、かつ実践することを心がけています。
<紹介図書>
『阿Q正伝;藤野先生』
魯迅著・駒田信二訳 講談社 1998.5
請求記号923.7||2042